年間の主日 A年  2011年 1 〜13



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          年間第4主日  2011130日   A年   グイノ・ジェラール神父

        ゼファニヤ書23節、312,13節 Tコリントの信徒への手紙12631節 マタイ5章T−12

    私たちは皆この世で幸せであることを希望しています。しかし私たちはどんな幸せを望んでいるのでしょうか? 富、健康、安全、家族的な喜び、安定した仕事でしょうか? 私たちの一人ひとりは 多分、自分の心の奥底に、自分の歩くべき道を発見し、もしできれば、種々の問題を避けて、のびのびと育っていきたいと考えています。ですから、幸せとは空の器のようなもので、一人ひとりが各自のやりかたで満たすものではないでしょうか?

    イエスは私たちが幸せであるために何をしなければならないかは語らず、むしろ期待はずれな事を言っています。というのは、幸せである為には、飢え、泣き、迫害され、貧しく、侮辱されねばならず、この幸せは私たちの希望と全くあいません。特に山上で宣言された事を実際にイエス自身が生きた結果、十字架上の死という悲劇的な最後を遂げた事を知ると、こんな幸せは望ましくないと認めざるを得ません。聖書の中の話はすべて、世の中の現実は十字架をになっていく現実であることを思い起こさせます。天国で約束された幸せを得るためは、私たちは苦悩と涙と貧しさの中に留まらなければならないのでしょうか?

    キリストの福音は良いメッセージの宣言であって、信じている人の上に数え切れない災いが起きるという予告ではありません。キリストの言葉はこの世の論理に対する輝かしい勝利の宣言です。「知恵のある者に恥をかかせるため、神は世の無学な者を選ばれました」と聖パウロは私たちに思い起こさせます。キリストの言葉は弟子たちに呼びかけられましたが、それは彼らに勇気、慰め、希望を与える為です。イエスは不幸が生命に打ち勝つ事はできないと言明しました。そして私たちの悪のすべてを引き受けてキリストは死にました。それはイエスの山上で言われた言葉は、真理であり、生命であることを、自分の復活によって、私たちに示す為です。そういうわけで、キリストは死に打ち勝ったと公言し、同時に、キリストを支えにして、私たちも死に打ち勝つ事ができると宣言します。

    キリストの言葉は私たちに幸せの道を示します。真理と生命を詰め込んだこれらの言葉を受けながら、私たちは自分のうちにこの幸いの秘訣をもっていない事を認めます。人生の数々の試みにも拘らず、イエスだけが私たちを本当の幸せに導く事ができると認めましょう。私たちの涙、苦悩、悲惨さは今直ぐでも神の憐れみに満ちた手からすべてを受ける可能性を与えます。平和と正義への渇望がイエスを私たちの傍に引き付けます。迫害はキリストと私達を親密に一致させ、さらに、キリストが父から受けた栄光とも親密に一致させます。キリストの弟子である私たちは幸いです。

    それ故、イエスは私たちが直ぐに消える小さい幸せではなく、本当で長く続く幸せを捜し求めるように招きます。そのために、キリストは私たちに自己離脱、柔和、平和、正義、清さ、慈しみ、涙の道を、また苦悩と試みの多い道を提供します。人生の歩みを通して、日常生活での分かち合いを体験しながら、これらの道はすべてを神の発見や、神との出会いへと私たちを導きます。それらの道は永遠の幸せである神の命の神秘へ私たちを招きいれます。度々これらの道は交錯しあっています。しかしイエスはすべての道に現存して、私たちと共に歩み、私たちに力や忍耐を与え、特に聖霊の賜物を与えます。

    生きるために与えられる日毎の出来事を信仰と勇気をもって受け容れましょう。もしそれに喜びが伴うなら、神の憐れみの故に神に感謝しましょう。もし反対に涙を伴うなら、信頼の心をもって泣き、神の憐れみに委ねましょう。このようにして私達は、人間としての生活の中に、イエスの言葉とそのみ言葉が示しているすべての約束を組み込みましょう。イエスの言葉が、私たちの人生の中で既に神と完全に結ばれているものを発見する助けとなりますように。 アーメン。


 
            年間第5主日  201126日   A    グイノ・ジェラール神父

       イザヤ書58710節 Tコリントの信徒への手紙2章T−5節  マタイ51316

   「あなた方は地の塩である」とイエスは私たちに言いました。この表明は私たちに何かを分からせるための、一つの比較のイメージではありません。これはキリストの弟子である私たちの身分を語っています。神は天において「私たちの父」であるように、地上において私たちは「地の塩であり、世の光です」。イエスは私たち一人ひとりが地の塩、世の光でなければならないとは言いません。イエスは私たち一人ひとりがそのようになるように努めなさいとも言いません。実際私たちは、個人的にではなく、共同体としてそのようなものです。教会においては皆共に、イエスの弟子としての集合体です。私たちの共同体の信仰と希望の証しは私たちを取り巻いている者すべてに、神の味と神の光を与えます。

    私たちがここに集まっているのは、人が私をどんな目で見ているかに関係なく、神の眼差しのもとに、祈り、信仰を養う為です。 私たちの共同体の信仰の証しは、人が受けようとも受けなくとも、重大な事ではありません。根本的なことは、「折がよくても悪くても」(Uテモテ42節】証しをすることです。地の塩であり世の光であることは、神が私たちに期待している事に忠実である事です。 私たちの信仰を表明して、自分の評判をでっちあげることではなく、むしろ私たちが神の王国を建設する事です。パウロは自分の信仰を証するために、不器用で弱い事を知っていましたが、神の権能にたえずよりかかっていました。人々が自分についてどう考えているかを無視しました。コリントの信徒への手紙の中で、パウロは、「私たちはキリストのために、愚か者となっている」(@コリント410節)と述べ、私たちが証するのを妨げるものは何もないといっています。

    何世紀かの間、教会を迫害する者は、キリスト者は馬鹿な者だと考えていました。18世紀に、反宗教の哲学者たちや革命家たちは、宗教の暗闇に支配されている人々に、理性の光を提供しようと望みました。共産主義者は、キリスト者であろうとなかろうと信仰をもつ人々が人類の進歩への道を照らすのは不可能であり、逆行させていると思いました。イエス自身が「私は世の光である」といっています。そして私たちはイエスの弟子であり、イエスの御体の部分であると、私たちについても同じ真理を話しています。「あなたがたは地に塩であり、世の光です」と。イエスの証しが受け容れられなかったのと同様に、私たちの証しも受け容れられない可能性は高いです。 しかしそうであろうと、私たちは証しをしなければなりません。 私たちの弱さは練り粉全体を膨らませるパン種です。迫害者や 軽蔑する人や 無関心な人々に立ち向かう勇気は、いつも立派な実りをもたらし、信仰が伝えられるのを可能にしました。

   信仰と希望と共感の証しによって、私たちの共同体は神ご自身の心の光を反映します。私たちの行いが神の愛を示す時、それは暗闇を追い払い、神を啓示する光となります。パン種を分かち合うことや他人の願いを拒否しない事、また第一の朗読で預言者イザヤが私たちの要求した愛の業を実現する事で、私たちの光は曙のように射し出で、」また「私達は地の塩となる」でしょう。

   しかし注意してください。味のない塩となってはいけません。もし私達が神に親密に結ばれなければ、私たちは世に味をつけることは出来ないし、世を照らす事もできません。神の味、真実の唯一の香りを失ったキリスト者は何の役にも立ちません。その人は「生ぬるいので、神の口から吐き出される」(黙示録316節)ものになります。神との一致に留まりましょう。そうすれば、人々は私たちのうちにおられる神の現存に引き寄せられるでしょう。私たちは風に揺らめく炎になってはなりません。かえって神の光であり、皆にとってキリストの味であるはずです。さあ、火と燃える神の言葉によって焼き尽くされましょう。神だけがこの世を照らすからです。アーメン。



          年間第6主日  2011213日  A年   グイノ・ジェラール神父

      シラ書151520節   Tコリントの信徒への手紙2610節   マタイ51737

  「私が来たのは律法を廃止するためではなく完成する為である。」とイエスは公言します。しかし実際、イエスはご自分が言った事を私達が実現するように願っているし、その上さらに、律法を守っているユダヤ人以上に、私たちがもっとよく実現するように求めています。こういう意味から、イエスはモーセの律法以上に厳しいものを要求します。しかしながら、イエスが要求するものと律法の間には、重大な違いがあります。人は律法を自分の義務として実行し、イエスは愛と自由の道を私たちに提案します。このようにイエスは神と私たちの間に深い一致を実現したいのです。愛するのはもはや律法ではなく神と私たちの兄弟姉妹をこそ、愛さなければなりません。 奴隷のように仕える律法にではなく、神に仕えるのに、神と親密に分かち合うのでなければなりません。キリストの目的は人が自分自身と和解し、更に神とも和解することです。

   イエスが全人類にもたらす新しい調和は人の心を通して伝わります。律法の奴隷制度から私たちを解放すると同時に、イエスは私たちの心に神の愛をあふれるほど注ごうとします。イエスにとって律法への尊敬はまず神と他の人への尊敬を通して実現されます。そのために、イエスは私たちに次のように言います。「兄弟があなたに反感を持っているなら、あなたの供え物を祭壇の前におき、まず行って兄弟と仲直りをしなさい」

  「兄弟に馬鹿と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」と。自分の兄弟を傷つけることは、神ご自身を傷つけることです。 ですから正しい人であるように、自分と神をぴったりと合わせる必要があります。これは隣人についても同様です。それは愛に生きるために、また、その愛が神に栄光を与え、私たちを聖化します。

   神への愛と隣人への愛は同じ愛です。 イエスの言葉は実現しにくいように見えますが、この言葉が救いを与えます。キリストの真実の弟子であるために、この言葉は必要な識別力を与えます。イエスの言葉は救いと平和を与える言葉です。モーセの律法によると、命への尊敬、隣人への尊敬と神への尊敬は強制的な命令でした。キリストの口から、この律法は隣人への愛の喜ばしい確認、人々への自由の尊敬、同時に、神に対する絶対的な信頼を呼び起こす呼びかけとなります。

   律法を廃止するのではなく、完成する為に来たと言うイエスは、私たちに律法を守る事と愛する事は対立するものではなく、むしろ欠かせない二つの様相であることを示そうとします。 人はまず法に従い、それから強制的に学んだ事を愛によって行なうほうがもっと利益があると言う事を理解します。律法と愛は違ったものでありながら対立していないので、このふたつの間でどちらかを選ぶ必要はありません。実に私たちは両方を必要とはしていないのです。つまり愛があれば、法は必要ではありません。しかしこの世には、絶望的に愛が欠けているから、法が必要です。と言うわけで、自分たちの問題を解決する為に、人々はしばしば法律と裁判官を利用します。もし人が愛と赦しに第一の立場を与えていたら、沢山の悲劇を避けることが出来たでしょう。

  昔、母親は義務によってではなく、愛によって自分の子供を育てていました。皆がよく知っているように、残念ながら今日では、ある両親は自分たちの子供をほったらかしにしているから、この両親に自分の子供の衣・食・住に心を使い,正しく教育をするように多くの法が決められています。そこで、イエスが私たちの思い起こさせる事は、私たちが置かれた状況の中で愛を示す事ができないなら、残念な事ですが、法律に従がわなければならないと言うことです。法律の廃止は必ず無秩序状態を作り出します。愛の欠如はこの世を滅びに突き落とします。ですから、私たちは命に導く物事、この世を救う物事を選びましょう。イエスは良い選び方を私たちに教えたからです。ア−メン。



             年間第7主日   2011220日   A年   グイノ・ジェラール神父

       レビ記 191,2,17,18節  Tコリントの信徒への手紙 31623節  マタイ 51848

    今日、イエスは謙遜と愛の業によって悪に打ち勝つように願います。怒ることは簡単ですし、自分のうちに悪事を企てることも、また私たちに恥をかかせ、苦しみを与えた人々の不幸を願う事も簡単です。この暴力の世では、「悪人に手向かわない」ことや「悪の前で譲歩する」ことは、人々にとって、臆病や弱さのしるしと思われます。そういうわけでイエスは、この私たちの弱さの中心に愛が見て取れるように望まれます。愛はいつも悪に打ち勝ちます。それは愛が平和と赦しをもたらすからです。

    神が私たちの心に注がれた愛が自分の自己愛によって奪われ、飲み込まれないように、私たちは絶えず闘う必要があります。  受けた傷を頭の中で反すうするよりも、聖霊の力を願いましょう。それは私たちに害を与えた人たちの利益を捜し求める謙遜さを頂くためです。私たちはキリストに属しているので、高慢、自己愛、利己主義が私たちを支配しないように、全力を尽くさなければなりません。これに対して、祈り、キリストの受難の黙想は効果的な助けであり、真の力です。

    第一の朗読の中で、神はご自身が聖であるように、私たちも聖であるように求められ(レビ記192節)、更に聖パウロは私たちが神の神殿であることを思い起こさせます。悪を行なう人々に対して私たちがしなければならない正義は、憐れみであって復讐ではありません。自分たちの敵を愛し、世界中のあらゆる所で私達を憎み、教会を迫害する人々のために祈りましょう。このことこそ神が私たち皆に求められる義です。罪人に対するこの絶え間ない祈りは、私たちを神の子供とし、神殿とします。神は永遠の善であり、あらゆるものの救いを望まれます。神に似たものとして創造された私たちは聖霊の力に満たされて、悪を犯す人々に対する善良さ、忍耐力、赦しなどを示す必要があります。殊に、その悪が直接私たちに関係があろうとなかろうとです。

    マリアもまた彼らの死の時までたえず罪人の為に祈ります。彼女は彼らに永遠の救いを与えることが出来る時まで、決して希望を失いません。謙虚に忍耐強く愛するのに必要な力をいただくために、私たちの祈りがマリアの祈りと一致しますように。『憎しみのあるところに愛をもたらし、不和のあるところに平和がもたらされるように』 私たちの心に謙遜、善意、憐れみを持つために、このアッシジのフランシスコの美しい祈りを度々繰り返しましょう。最後に今日の福音によってイエスから伝えられた言葉をしばしば繰り返して読みましょう。イエスは憐れみの源であり、そのみ言葉は命のみ言葉です。イエスなしには何も出来ない事を私達はよく知っています。(ヨハネ155節) 私たちが悪と不正の犠牲者であるとき、イエスにしっかりと結びついているようにしましょう。というのは、悪と不正の犠牲者である以上に、自分の弁護と復讐を望む私自身の傲慢の餌食とならないためです。

    イエスは私たちのために天の門を開きます。それは私達が本当にそこで生きるのを許されるためです。そこに住む者は神が限りなく愛される子供たち、憐れみ深く聖である子供たち、罪人の永遠の救いのために祈り、仲介する子供たちです。死に打ち勝ったキリストに一致して、死と悪に打ち勝ち、「天の御父が完全であるように私たちも完全な者」となりましょう。(マタイ548節)ア−メン。



          年間第8主日  2011227日 A年   グイノ・ジェラール神父

       イザヤ書 4914,15節  Tコリントの信徒への手紙 4章T−5節  マタイ62434

    心配しない事、ストレスを生じさせない事、むしろ私たちの幸せを望む神を信頼すること、これこそ今日のテーマです。神は私たちの事を絶対に忘れられないとイザヤは教えます。もし、私たちの事を心配する誰かがいるとすれば、その方は神ご自身です。以上のような理由で、いつも神に希望を置くようにとイエスは勧めています。どれほど思いがけないことがあっても、私達が幸せであるために大切な物事を与えながら、神は私たちを見守ります。「誰も二人の主人に仕えることは出来ない」この言葉は今の時代によく合います。 何故なら私達はたびたび、役に立つものと快適なもの、またどうしても必要なものと取るに足りないものとの間で、引き裂かれていますから・・・

    まず神の国とその正義を捜し求めることは、私たちに対する神の計画と自分達の欲望との間にあまりにも大きすぎるずれがないようによく注意し、捜し求める事です。神の意志をおこないながら、自分自身の計画を実現するためには、神に祈ることが求められます。何かを始める前に、大きくても、小さくても、どうであっても、神が私たちのプランを祝福するように願う知恵をもちましょう。たとえば家庭を作り、食事を準備し、子供を教育し、または少教区で奉仕することなどです。

    もし心配する必要があるとすれば、自分の日常生活と信仰生活の間で実際にバランスが取れているかどうかに気を配る事だけです。 神が毎日、実際に私たちの世話をされる事を十分信じているでしょうか? もし答えが「いいえ」であれば、「私たちの日毎の糧をお与えください」と祈る時、私たちの祈りは偽善であり、無駄なものでしょう。神の国を捜し求める事は、真理のうちに、自分の信仰に生きる決意を持つことです。

    私たちは神に何も期待しない人になってはいけません。何故なら、ある日、どうしても神の緊急の助けがほしい時、「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、私から離れ去れ。」(マタイ723節)と神はきっと私たちに答えるでしょう。うるさい未亡人の例え話(ルカ18118節)を通して、神がうるさくてかなわない人や、昼も夜も嘆き叫ぶ人を好まれるということをイエスは私たちに思い出させます。神は特に私たちに聖霊を与えようと望まれます。それは神ご自身の力によって私たちを強める為、またご自分の聖性によって私たちを聖化するためです。私たちの弱さと限界が、神を土台にすると同時に神のいつくしみが必ず与えられる事を信じるように神は望まれます。

    神が私たちに賜物を与え、その上に私たちの幸せの土台をおきます。ご自身の王国を建設するために、神は私たちを通して働かれます。神が私たちを信頼するからこそ、私たちも神を信頼しなければなりません。私たちの手段の欠けていることが、恐れずにまず神に向かうように、そして私たちを助けるものとなりますように。私たちの弱さと限界が、忍耐すること、希望すること、祈願すること、前よりもっと祈る事を学ばせます。このような態度は、神の手に自分を委ね、謙遜への道を歩むように私達を導きます。神の国は先ず私たちのうちに建設されます。ルカ1721節参照)

    神の正義を捜し求める事、それは神が私達を形作り、変容し、変化するのを許すことです。神の正義を捜し求める事、それは感謝のうちに生きることです。またそれは人生の賜物や、受けた全ての恵や、私たちの喜びとなった全ての物事や、私たちが住んでいるこの素晴しい世界のために、神に有難うと言う事です。 一つ一つのミサそれぞれは感謝の祭儀です。ですから今日、このミサに参加することで、神に私たちの信頼を表明しましょう。さらに、神の愛する子供である喜びと神の国の建設にあずかる私たちの幸せを捧げましょう。アーメン。



               年間第9主日  201136日 A年  グイノ・ジェラール神父

        申命記 111826,2832節 ローマの信徒への手紙 32125,28節 マタイ72127

    王国を建設には、長い期間と困難を伴います。言われた事を成就するよりも、聞くほうがもっとやさしい事を私たちはよく知っています。実際、行いを実現するよりも討論するほうがよほどやさしいこともよく知っています。聖パウロはコリントへの第二の手紙で信徒に次の事を思い出させます。飢饉の犠牲者であるイスラエルのキリスト者を助けようと、あらゆる教会で募金を集める段取りを最初に考えたのはコリント人でしたが(使徒言行録112730節参照)今まで彼らは何も寄付しなかったと言うことです。(Uコリントの信徒への手紙8,9章参照)

    神が望まれたことを全くせずに、受けた恵の故に神を賛美することは、砂の上に建てることです。イエスの本当の弟子たちは計画を聞いたりしたりすることだけで満足しません。むしろ受けた教えに従って、それを具体化するために十全に生きようと努力します。私たちの言葉、行い、行動はキリストが私たちの人生の岩である事を示すものでなければなりません。キリスト教的でない振る舞いは、つまずきでしかありません。隣人の悪口をいい、他人のしようとすることを批判すること、また隣人を赦そうと望まなかったり、助けるのを拒絶したり、教区の維持費を納めるのを拒否するなど、これらは砂の上に建てることで、全てを破壊する嵐を自分のほうへ引き寄せることです。そこで主が「私から離れなさい。悪を行う者よ。」といわれるには論拠があります。

    私たちは祈りをし、信仰のうちに行う為に、神のみ言葉を聞きます。結局、信仰だけが私たちの行い全てを正しくします。パウロがローマの信徒への手紙の中で説明しています。「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」(ローマ書322節)は父のみ旨の実現です。岩の上に建てることは、私たちの人生のあらゆる面に神のみ言葉が浸み込むように望む事です。岩の上に建てることは、神の光のうちに生きる事を選ぶ事です。岩の上に建てることは、神のみ旨を成就するためによろこんで聖霊に導かれるままになることです。

    イエスの母マリアは聞いた言葉や日常の様々な出来事を自分の心に納めて、それらを賛美の祈りと観想に変えました。マリアの信仰は生き生きとして自然で、すべては神に感謝するために恵まれた道になりました。私たちの信仰は神の賜物であり、もし私達が望むなら、私たちもまたすべての出来事を感謝と命の道に変えることが出来ます。人生の小さい出来事の中でさえ神のみ旨を成就する事は、神に栄光を帰し私たちのうちに生きているキリストの証しとなります。

    行いを伴わない信仰は弱いとイエスは私たちに言います。聖ヤコブは彼の手紙のなかで、同じ事を繰り返しています。「私の兄弟達、自分は信仰をもっていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか?」(ヤコブ214節)と。このように神のみ旨を実現する私たちの行いが、私たちの信仰の目に見える印です。この行いがまた私達が真の証人であることを示します。神のみ言葉は確かに真理の道を生きる大きな助けです。神のみ言葉はゆるぎない巌であるキリストの上に、私たちの共同体を築き続けるのを可能とします。

    キリスト教的生き方は神の言葉を受け、聞き分け、隣人への奉仕と、隣人に気を配るということを実行することの組み合わせです 神のみ旨を行なう事と隣人に奉仕すること、これこそ岩の上に自分の家を建てることです それはまたキリストと共に世の光と地の塩になることです。ですからこれらの事を理解したら、直ぐにマリアと同様に神に感謝しましょう。アーメン。




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